滋賀県大津市にある「園城寺(三井寺)」の御朱印を紹介をします。
御朱印
園城寺(三井寺)金堂の御朱印
園城寺(三井寺)観音堂の御朱印
※西国三十三観音霊場第14番札所
園城寺(三井寺)観音堂〈御詠歌〉の御朱印
※西国三十三観音霊場第14番札所
いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
御詠歌
園城寺(三井寺)釈迦堂の御朱印
微妙寺(十一面観音)の御朱印
※湖国十一面観音霊場第一番札所
微妙寺(黄不動)の御朱印
水観寺の御朱印
※ 西国薬師四十九霊場第48番札所
境内案内
不死鳥の寺
園城寺(おんじょうじ)は、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称します。日本三不動の一つである黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第十四番札所でもあります。
園城寺は、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うために、皇子の大友与多王が朱鳥元年(686年)に寺を建立しました。大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志から、天武天皇より「園城寺」の名を与えられました。一般には三井寺(みいでら)の名でよく知られていますが、この名称は天智、天武、持統の三天皇の産湯に使われたと伝えられている井戸があることに由来して、御井の寺とよばれ、これが後に三井寺と言われるようになったとされています。
当初は大友氏の氏寺でしたが、平安時代に比叡山の智証大師円珍が寺を復興して延暦寺の別院としたといわれています。円珍の没後、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが、永保元年(1081年)を始め度々ありました。文禄4年(1595年)11月、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院に避難させましたが、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築されました。復興の請願を繰り返し行い、慶長3年(1598年)にようやく再興されています。
こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されています。
再興された伽藍
国宝の金堂は、中院の中心堂宇で園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により正室・北政所によって、慶長4年(1599年)に再建されました。本尊として天智天皇の念持仏とされる弥勒菩薩(秘仏)を安置しています。なお、秀吉により移築された旧金堂は延暦寺西塔の釈迦堂として現存します。金堂の左手前には、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘が吊されています。鐘楼は重要文化財に指定されています。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられています。
別所寺院の一つ「微妙寺」は、安永5年(1776年)の再建され、昭和54年(1979年)に創建以来の地から現在地である園城寺中院に移転されました。また、湖国十一面観音霊場の第一番札所となっています。
別所寺院の「水観寺」は、慶長6年(1601年)、園城寺長吏准三宮道澄大僧正によって復興されました。その際、薬師堂に安置されていた薬師瑠璃光如来像を新たな本尊として迎えています。現在の本堂は、明暦元年(1655年)の再建され、昭和63年(1988年)に現在地に移転されました。そして、西国薬師四十九霊場第48番札所となっています。
寺院情報
宗派
天台寺門宗
御本尊
- 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
所在地
滋賀県大津市園城寺町246
公式サイト
地図
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