京都市南区にある「城興寺」の御朱印を紹介をします。
御朱印
城興寺の御朱印
※洛陽三十三観音霊場第22番札所
境内案内
藤原信長の邸宅のひとつ
瑞寶山(ずいほうざん)と号する城興寺(じょうこうじ)は、藤原道長の孫で九条太政大臣と呼ばれていた藤原信長(1023年~1094年)が、応徳2年(1085年)に邸宅の一つ九条邸に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と名づけたのが始まりとされいます。
その後、関白藤原忠実が永久元年(1113年)ここに寺院を建立して城興寺とし、十年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安三年(1123年)に白川法皇の院宣をもって盛大な伽藍供養が行われたと伝えられています。
平安時代末期には、最雲法親王の弟子であった以仁王がこの寺の寺領を領していたが、治承3年(1179年)平氏政権によってとりあげられて梨本門跡出身の天台座主明雲に与えられました。このことが以仁王の挙兵の原因のひとつとされています。
創建当初は広大な寺域をほこっていましたが、徐々におとろえ、現在では、本堂の観音堂と庫裏、寺内社として薬院社を残すのみです。
薬院さんと親しまれる「薬院社」
薬院さんの名で親しまれている「薬院社」は元の名を施薬院稲荷といいます。
平安の昔、新町通り東寺道下ル西側に左大臣藤原冬継(775年~826年)が開設した施薬院(病院)が、東寺道烏丸上ル西側辺りには施薬院御倉がありました。しかし鎌倉初期、これらの施設は他所へ移転しましたが、薬院の杜に施薬院稲荷の祠が残り鎮守さまとして崇敬をあつめてきましたた。
明治にり、辻堂廃止令が出され明治11年(1877年)に、施薬院稲荷は城興寺境内の荼枳尼天堂に合祀されました。
寺院情報
宗派
真言宗泉涌寺派
御本尊
千手観音(せんじゅかんのん)
所在地
京都市南区東九条烏丸町7-1
公式サイト
地図
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