京都市東山区にある「清水寺」の御朱印を紹介をします。
御朱印
清水寺の御朱印
※西国三十三所観音霊場第16番札所
清水寺の御朱印(御詠歌)
※西国三十三所観音霊場第16番札所
「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」
御詠歌
清水寺の御朱印(善光寺堂)
※洛陽三十三所観音霊場第10番札所
清水寺の御朱印(奥之院)
※洛陽三十三所観音霊場第11番札所
清水寺の御朱印(本堂)
※洛陽三十三所観音霊場第12番札所
清水寺の御朱印(朝倉堂)
※洛陽三十三所観音霊場第13番札所
清水寺の御朱印(泰産寺)
※洛陽三十三所観音霊場第14番札所
清水寺の御朱印(阿弥陀堂)
※法然上人二十五霊場第13番札所
※他、御詠歌と洛陽六阿弥陀めぐり第3番札所の御朱印を頂けます。
清水寺の御朱印(音羽の瀧)
境内案内
世界遺産にも登録されている、京都有数の観光地
音羽山と号する清水寺は、もとは法相宗に属していましたが、現在は独立して北法相宗の大本山となっています。
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧の賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に入りました。そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいたそうです。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていったそうです。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置しました。これが清水寺の始まりです。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会いました。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したといわれています。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定に勝利し、無事に都に帰ることができた田村麻呂は、延暦17年(798年)に、延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったといわれています。この縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけています。
延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされています。清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返しています。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものです。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。現在は、京都市内でも有数の観光地として有名で、古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されています。
多くの建物がに国宝・重要文化財に指定されている
境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物がに建ち並んでいます。国宝の本堂は、徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されました。「清水の舞台」とも呼ばれ、建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられています。多くの長大な139本のケヤキの柱が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えています。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言われています。
その他にも清水寺の建物の数多くが重要文化財に指定されています。堂を結ぶ廊下の北側にある重要文化財の朝倉堂は、越前の守護大名朝倉貞景の寄進した建物だったことから朝倉堂とよばれていますが、現在の建物は寛永再興時の再建されました。西国三十三所観音霊場の観音像を安置されてます。
他にも、善光寺堂、奥の院(重要文化財)、本堂、朝倉堂、泰産寺は洛陽三十三所観音霊場となっています。また、重要文化財の阿弥陀堂は後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の額が架かり、文治4年(1188年)、法然がこの地で念仏を修したとの故事により、法然上人二十五霊場の十三番とされています。音羽の滝は、奥の院の建つ崖の下にあり、清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちています。
寺院情報
宗派
北法相宗大本山
御本尊
- 千手観音(せんじゅかんのん)
所在地
京都市東山区清水一丁目294
公式サイト
地図
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