京都市東山区にある「六波羅蜜寺」の御朱印を紹介をします。
御朱印
六波羅蜜寺の御朱印
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※西国三十三所観音霊場17番札所
六波羅蜜寺の御朱印〈御詠歌〉
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「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」
御詠歌
※西国三十三所観音霊場17番札所
六波羅蜜寺の御朱印
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※洛陽三十三所観音霊場15番札所
六波羅蜜寺(弁財天)の御朱印
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※都七福神
境内案内
「踊り念仏」空也上人により開創

補陀洛山と号する六波羅蜜寺は、踊り念仏で知られる空也上人が、疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、自ら十一面観音像を刻み、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったといわれています。その後、応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて、大規模な大般若経供養会を行いました。これが始まりであると言われています。
当初は西光寺とよばれていましたが、空也の死後、貞元2年(977年)に比叡山の僧・中信が中興され、その規模増大荘厳華麗な天台別院として栄えたそうです。その際に六波羅蜜寺と改称しました。それ以降天台宗に属しましたが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となりました。

平安後期には、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだといわれています。寿永2年(1183年)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れました。
現本堂は貞治2年(1363年)の修営でありますが、明治以降荒廃していたました。昭和44年(1969年)に、開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿となしました。
国宝や数多くの重量文化財を有する

本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作であり、10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、天暦5年(951年)に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われます。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏であ、国宝に指定されています。
他にも重量文化財の木造空也上人立像、木造僧形坐像(伝・平清盛像)、運慶の真作と見なされる木造地蔵菩薩坐像など、数多くの日本彫刻史上著名な仏像、肖像を所有しています。
都七福神のひとつ弁財天

弁財天堂の六波羅弁財天は、崇徳天皇の夢告により禅海によって造立されたもので、崇徳天皇が亡くなった後、寵愛されていた阿波内侍(あわのないし)が屋敷を寺とし、弁財天堂を建立して祀っていたのだと伝えられていて、都七福神のひとつです。
寺院情報
宗派
真言宗智山派
御本尊
- 十一面観音(じゅういちめんかんのん)
所在地
京都市東山区五条通大和大路上ル東
公式サイト
地図
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