和歌山県那智勝浦町にある「青岸渡寺」の御朱印を紹介をします。
御朱印
青岸渡寺の御朱印
※西国三十三所観音霊場1番札所
青岸渡寺の御朱印〈御詠歌〉
※西国三十三所観音霊場1番札所
「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬 」
御詠歌
境内案内
西国三十三所観音霊場第1番札所
山号を那智山と号する青岸渡寺は、かつては如意輪堂と呼ばれ、那智権現は最盛期には7寺36坊を有し、熊野修験の一大本拠地となっていました。しかし、明治の神仏分離令により、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では、神を選び仏を捨て、寺院は取り壊されました。那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行われ、いくつもの仏寺や坊舎が取り壊されました。那智権現は明治4年(1871年)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となりました。如意輪堂は、西国三十三所観音霊場の第一番札所であったことから、取り壊しはされませんでしたが、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され、空堂とされました。しかし、その後、山内の人々の願により明治7年(1874年)に、神社側から独立して、「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興されました。
青岸渡寺(如意輪堂)の創建は、仏教伝来以前の仁徳天皇の御代(313~399)にインドから熊野に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)が那智大滝にて滝修行中、滝壷から八寸(約24cm)の観音像を感得し、草堂をむすんでこれを安置したのが始まりと伝えられています。その後、7世紀頃に大和国から生仏という僧が来て、一丈(およそ3m)の如意輪観音の木像を彫り、裸形上人が得た観音像を胸に納めて本尊とし、正式に本堂が建立されたそうです。
また、如意輪観世音を祀る本堂は、織田信長の焼き討ちにあったのを、天正18年(1590年)に、豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しており、南紀最古の建築物で、重要文化財に指定されています。また、2004年7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。
熊野那智大社の御朱印
寺院情報
宗派
天台宗
御本尊
- 如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)
所在地
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8
公式サイト
地図
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