京都市東山区にある「妙法院門跡」の御朱印を紹介をします。
御朱印
妙法院門跡の御朱印
境内案内
三十三間堂の本坊
妙法院は山号を南叡山と称します。もとは、比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主は伝教大師最澄とされています。その後、西塔宝幢院の恵亮が継承し、その教えを伝えたました。平安時代末期(12世紀)には、後白河法皇が洛中に移転しました。居所(院御所)である法住寺殿の造営を進め、御所の西側に千体千手観音像を安置する蓮華王院(三十三間堂)が建てられました。永暦元年(1160年)には、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、新日吉社(いまひえしゃ)としました。この新日吉社の初代別当に任命されたのが、妙法院の昌雲という僧でした。昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったと言われています。18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王です。鎌倉時代には「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれた広大な領地を所有していました。
近世は、方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を兼帯する大寺院ですが、妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からです。これは大坂の役で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けてことです。蓮華王院(三十三間堂)については、創立者である後白河法皇との関係から、早くから妙法院が関与していて、正応4年(1291年)の後白河法皇百回忌供養は、妙法院門主の尊教が三十三間堂において行い、以後、50年ごとの聖忌供養は妙法院門主が三十三間堂にて行うことが慣例となっています。
近代に入って方広寺と新日吉社は独立しましたが、蓮華王院(三十三間堂)は現代に至るまで妙法院の所属となっています。
また、幕末には、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台ともなっていることでも有名です。
国宝の庫裏
豊臣秀吉が造営していた方広寺の大仏殿が完成したのは文禄4年(1595年)のことでした。この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた「千僧供養」を「大仏経堂」で行いました。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、国宝にも指定されている、妙法院庫裏だとされています。
他にも、国宝のポルトガル国印度副王信書 や数多くの重要文化財を所有しています。
蓮華王院(三十三間堂)の御朱印
方広寺の御朱印
新日吉神宮の御朱印
寺院情報
宗派
天台宗
御本尊
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
所在地
京都市東山区妙法院前側町447
公式サイト
地図
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