京都市東山区にある「方広寺」の御朱印を紹介をします。
御朱印
方広寺の御朱印(平成29年9月)
方広寺の御朱印(平成30年3月)
境内案内
大仏殿の造立が始まり
方広寺は天正14年(1586年)に、関白の豊臣秀吉が松永久秀の焼き討ちによって焼損した東大寺の大仏に代わる大仏(盧舎那仏)の造立を発願したのが始まりです。大仏の造立には刀狩りで没収した武器を利用し、大仏の大きさは東大寺の大仏よりも大きい6丈3尺(約19メートル)だったと言われています。文禄4年(1595年)方広寺は完成しましたが、文禄5年(1596年)の慶長伏見地震によって大仏は倒壊しました。その後、大仏の代わって善光寺如来(阿弥陀三尊)を移しましたが、秀吉が病に臥したのは善光寺如来の祟りではないかとされ、善光寺如来は戻されたそうです。
方広寺鐘銘事件
豊臣秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」「君臣豊楽」の字句が、家康の名を分割し身を切断することを意味し、徳川氏を呪詛し、「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると非難し、大仏開眼を延期させ、豊臣方を憤激させました。豊臣秀頼は、重臣片桐且元をつかわして誤解をとかせようとしましたが、最初から計画的であった家康にいれられず、豊臣方も硬化し、且元も大坂を退城し、慶長 19年(1614年) 10月の大坂冬の陣を引起すことになりました。 これが、方広寺鐘銘事件と言われています。
寺院情報
宗派
天台宗
御本尊
- 盧舎那仏(るしゃなぶつ)
所在地
京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
公式サイト
地図
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