施福寺の御朱印情報/大阪府和泉市

和泉市

大阪府和泉市にある「施福寺」の御朱印を紹介をします。

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御朱印

施福寺の御朱印

※西国三十三所観音霊場第4番札所

施福寺の御朱印(御詠歌)

※西国三十三所観音霊場第4番札所

「深山路や 檜原松原 わけゆけば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる 」

御詠歌

施福寺の御朱印(弥勒菩薩)

施福寺の御朱印(馬頭観音)

※その他、槙尾不動尊、方違大観音、槙尾弁才天、文殊菩薩、虚空蔵菩薩の御朱印もあります。

境内案内

欽明天皇の時代に創建し、様々な縁起が伝わっています

槇尾山(まきのおさん)と号する施福寺(せふくじ)は、通称槇尾寺(まきおでら)とも呼ばれ、西国三十三所第四番札所であり、槇尾山とともに大阪みどりの百選に選定されています。

古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、施福寺は欽明天皇の時代(539年~571年)に、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるといわれています。

西国三十三所札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されています。『宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧たちはそれを拒んだ。すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったといわれています。』

他の縁起には、役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もあります。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承があります。また、空海については延暦12年(793年)、20歳の時、槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがあります。

度重なる焼失を繰り返し再興

中世以降は、正嘉年間(1257 – 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されと伝えられ、仁治年間(1240年 – 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されました。また、中世には仁和寺の支配下にありました。南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興されました。

近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となりました。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失、現在の本堂等はその後に再建されたものです。現在、堂宇はほとんど残っておらず、かつての栄華は感じられませんが、民衆の寄進によって再建されています。

寺院情報

宗派

天台宗

御本尊

  • 弥勒菩薩(みろくぼさつ

所在地

大阪府和泉市槙尾山町136

公式サイト

地図

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