京都市伏見区にある「與杼神社」の御朱印を紹介をします。
御朱印
與杼神社の御朱印
境内案内
淀城跡公園内に鎮座する産土神
淀城跡公園内にある與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土神として鎮座しています。
この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に、肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座する與止日女(よどひめ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると言われています。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたとも考えられてます。
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれいます。桂川河川敷の拡幅工事により、明治35年(1902年)に神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。昭和46年(1971年)に、本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。しかし、残念ながら本殿は、昭和50(1975年)年8月5日に、花火の火による火災で国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。その後、現在の本殿は昭和55年(1980年)に再建されました。
また、元禄年間(1688年-1704年)頃に建立(または再建)された多宝塔は、明治初年の神仏分離で破却されました。
大阪淀屋の高灯籠
江戸時代に寄進された高灯籠は、淀屋ゆかりの片岡正英・政冬が、高灯籠を寄進して大坂淀屋の再興を宣言したことを示したと言われています。
江戸時代初めの豪商淀屋の初代・岡本与三郎(淀屋常安)は、淀周辺のの岡本荘の出身とも言われていて、淀の地に家や田地も所有していたと記録に残っています。しかし、幕府を凌ぐほどの財を有しましたがが、宝永2年(1705年)5月に、闕所(けっしょ)となり、財産没収と所払いになりました。闕所とは、死刑と追放刑に処せられた者を対象とし、その付加刑として連帯責任を負わされ、財産、屋敷、家財などを公収されることです。淀屋はその後、宝暦13年(1763年)には、元の地に、木綿問屋「淀屋清兵衛」の再興を果たしました。
神社情報
御祭神
- 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
- 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
- 速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)
所在地
京都市伏見区淀本町167
公式サイト
地図
最新情報をお届けします
コメント